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つまり、自分で動く、動くと位置がずれる、ずれると見えるものが変わる、
同じものでも角度が変わって大きさが変わってくる。
脳は入出力の間にある中央演算装置、CPUですから、
入ってきた<入力>に対して、ある<出力>が出て行って、
そうすると入力がまた変わって、それに対して次の出力をする。
そういう形で、ぐるぐるぐるぐるまわしていくのが、「学習」なんです。
身動きができない子どもに、まず「動く」ということをやらせると、
そのとたんに入出力の間に、ループができる。
そのループをくり返しくり返しやることが、脳のなかにモデルを作っていく。
そのモデルは応用がきく。
つまり知覚の変化と、それにあわせる自分の運動の関係式ができる。
だからそうやって訓練した子どもは今度は、身体障害があっても
言葉をしゃべることが早くなる。
*出力のない入力は学習ではない |
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今の「学習」、お母さん方の使う「学習」というのは
極端なケースだと、まだハイハイもできない子どもに見せておく
幼児教育用のビデオ、のことだったりする。
それは、今説明した「学習」の考え方から言うと、まったく意味がない。
目の前でちらちら動くのは、知覚入力だ、というんですけど、
その入力は、出力といっさい関係がないから、それを「学習」とは言わない。
知覚経験にはなるかもしれないけど、それ以上の何にもならない。
結局、ビデオを見せておけば子どもがおとなしい、とかね、
親の勝手な都合でやっているんでしょう。
今の人は「文武両道」を完全にはきちがえていますね。
文と武という別々なものがふたつあって、それをある程度までやるのが
教育だと思っている。でもそうじゃないんだ。
<文>というのは入力でしょう、<武>は出力ですから、
それがループ、輪になって一人前のものでしょう、という話なんです。
*ハンディキャップにどういう価値を与えるかを考えたい
生き物というのは、非常に多様性を持っていて、いろんな形で出てくる。
それを「ハンディキャップ」と言っているのは、
ある特定の社会状況における「ハンディキャップ」なのであって、
別の状況におけばそうでないかもしれない。
それは知的能力の場合、典型的に出てくることですね。
最近よくそういう話をするんですが、たとえば言葉をしゃべれない、ということは
現代社会においては致命的ですね、しかし言葉をしゃべれない子どものなかには
非常にたくさんのいろんな能力がある、それは脳があるわけですから、
場合によってはとんでもない能力を持っている。
それを今は、使えないですね。
やっぱり社会というのは大勢の人で固定されてますから、それは仕方ないことで、
そういうときに、そういった能力にどういう価値を与えるかというのが
非常に大事なんですね。
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