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「まじめ」とは何でしょうか。
まじめとは、そもそも人の評価であって、人に見せている姿です。「まじめな子になりなさい」「まじめな子ね」という言葉を使うこと自体、人の評価を気にしている発言なんです。
そもそも人間が、まじめだけで評価されるのは変です。多様な面をいろいろ持っていてこその「人間らしさ」なわけですから。あの人はまじめね、と評される人がいるならば、じつはほんの一部分だけで生きている、もしくはほんの一部しか見られていない、とても悲しいことなのですよ。1人の人間の中には“まじめ”と“ふまじめ”が同居しているはずなのですから。片方のふまじめがどこかへ消えているのです。
強くしつけられた子どもたちは、表にみせる仮面が、親の期待どおりの「まじめな子」です。本人ですら、それが仮面であることを忘れているので、ふまじめな発言や行動がとれません。この状態は、本来、まじめの隣に寄り添っているはずのふまじめな側面が分離してしまって、心のずっと奥底で滞っているのです。
それは負の感情の塊になっていて、その中心には“痛みと怒り”があります。その負の感情の塊は思春期という精神が不安定な時期になって、突如表れ始めます。抑えが耐え切れなくなるのです。もし、思春期に表れなかったとしたら、そのまま親になって子どもを産んだ後に、きっと表れてくるでしょう。
虐待についての定義を「親による子どものコントロール」「しつけそのものだ」と言いました。とすれば、虐待行為は、なにも怒ったり、殴ったり、叩いたり、暴言を浴びせることばかりではありません。次に「きれいな虐待」と私が呼んでいる親子関係についてお話しましょう。
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